情報にあふれる都会と、シンプルなフィジーの暮らし
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2つの世界のあいだで
今はフィジーを拠点に生活していますが、時々都会で過ごすこともあります。
そんな時、必ず感じることがあります。
それは——情報量の多さです。
フィジーにある“余白”

フィジーで目の前に広がるのは、ほとんどが自然。
もちろん広告の看板などもありますが、
そのひとつひとつの情報に対して、ちゃんと考える余白があります。
「ああ、ここ行ってみたいな」
そんなふうに思ったことを、そのまま受け止める時間がある。
情報が少ないからこそ、ひとつの情報とちゃんと向き合える感覚があります。
都会にあふれる情報
それに比べて都会では、無意識のうちにたくさんの情報が目に入ってきます。
街を歩けば、さまざまな匂い。
イタリア料理店の前を通ればイタリアンの香りがして、
その向かいには韓国料理店の看板が目に入る。
公共交通機関に乗れば、あらゆる場所に広告が並び、
最近ではデジタル広告によって、情報は次々と切り替わっていきます。
「ここ行ってみたいな」と思った次の瞬間には、
「あ、これも美味しそう」と別の情報が入ってくる。
ひとつのことを考えきる前に、次の情報が押し寄せてくる感覚です。
増え続ける“選択”

そして都会では、選択する機会も圧倒的に多くなります。
何か食べたいと思っても、周りにはたくさんのレストラン。
どこに行こうかと迷う時間も増えていきます。
スマートフォンを開けば、そこにもまた大量の情報。
気づかないうちに、私たちはずっと「選び続けている」のかもしれません。
フィジーのシンプルなリズム
一方でフィジーの生活は、とてもシンプルです。
どの道から行こうかと悩むことも少なく、
選択する場面そのものが限られています。
もちろんスマートフォンは使いますが、
日常の中で考えることや選択することの数は、ぐっと少なく感じます。
その分、自然と「今」に意識が向き、
周りの環境や人との時間を大切にできる感覚があります。
どちらの良さもある
もちろん、情報が多いことには良さもあります。
選択肢が多いからこそ、
美味しいレストランやさまざまな体験に出会える。
都会ならではの楽しさも、確かにあります。
それでも感じたこと

ただ、フィジーでの生活に慣れた今、
都会の情報量の多さに圧倒されることが増えました。
選べる楽しさはあるけれど、
同時に疲れも感じてしまう。
そんな瞬間があります。
フィジーが教えてくれること
フィジーは、決して何でも手に入る場所ではありません。
選択肢も限られていて、物質的な豊かさという意味では足りない部分もあるかもしれません。
それでも——
とてもシンプルで、心地よい暮らしを楽しめる場所です。
情報が少ないことは、決して「足りない」ことではなく、
むしろ「余白」があるということ。
その余白があるからこそ、
本当に大切なものに気づくことができるのかもしれません。